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こっちいきます。いきまーす。
2011年3月11日金曜日
2011年3月7日月曜日
ララ、離しなさい。
愛犬のこと
僕が人形を放りなげると、犬であるララは喜び勇んでこれをとりに行き、もう一度投げてもらうために人形を拾い上げ、口にくわえて僕のもとへ持ってくる。僕は、よしよしわかったと口から人形をとろうと思うが、ララは強く口を閉じて決して人形を離そうとしない。え、人形投げてほしないの?と口から人形をとる行為を辞めると、しばらくこちらをじっと見つめ、口に人形を強くくわえこんだまんま僕手元に人形をもっていく。なんやねんやっぱし投げて欲しいかいな、とまた僕が人形を口から離そうとすると、やっぱり抵抗する。どっないやねん、ええい、もう無理矢理だってことで、無理矢理人形を口から離し投げてやると喜び勇んでこれをとりにく。以下繰り返し。
おいおいララよ、シンプルに行こうぜ、テイクイットイージー、素直が一番、と思うが、僕は密かにこの面倒くさいやり取りが大好きです。ミニチュアダックスなので、狩猟犬としての本能があるのですな。獲物を離してなるものか。でも楽しいことにも目がない。私のやりたいようにやるのよ。ずるい雌犬だねー。でもそんなあなたが好きな僕の負けなのですね。面倒くさいことすら愛しくなる。かわいいあなたの勝ちなのですね。
ララ、離しなさい(でも離さなくても良いのだ)。
僕が人形を放りなげると、犬であるララは喜び勇んでこれをとりに行き、もう一度投げてもらうために人形を拾い上げ、口にくわえて僕のもとへ持ってくる。僕は、よしよしわかったと口から人形をとろうと思うが、ララは強く口を閉じて決して人形を離そうとしない。え、人形投げてほしないの?と口から人形をとる行為を辞めると、しばらくこちらをじっと見つめ、口に人形を強くくわえこんだまんま僕手元に人形をもっていく。なんやねんやっぱし投げて欲しいかいな、とまた僕が人形を口から離そうとすると、やっぱり抵抗する。どっないやねん、ええい、もう無理矢理だってことで、無理矢理人形を口から離し投げてやると喜び勇んでこれをとりにく。以下繰り返し。
おいおいララよ、シンプルに行こうぜ、テイクイットイージー、素直が一番、と思うが、僕は密かにこの面倒くさいやり取りが大好きです。ミニチュアダックスなので、狩猟犬としての本能があるのですな。獲物を離してなるものか。でも楽しいことにも目がない。私のやりたいようにやるのよ。ずるい雌犬だねー。でもそんなあなたが好きな僕の負けなのですね。面倒くさいことすら愛しくなる。かわいいあなたの勝ちなのですね。
ララ、離しなさい(でも離さなくても良いのだ)。
2011年3月1日火曜日
書くのか書かないのか
友人にお前の書いてることようわからんと言われましたが、でもたまにわかるとも言われたので書きます。
ーーーーーーーー
…でも俯瞰の視座にたつことも時には聞くことの快楽を引き出すために重要だから、言い切ることが難しいねんけど(と、ここで早くも論拠が弱気になる。でも素直にそう思うので書く)。
と前回のブログでは、例えば画家が画家の目をもって絵画を見ることが出来るように、音楽家は音楽家の耳をもって音楽を聞くことが出来る。それは常人の視聴体験とは確実にことなっていて、細かく聞ける。細かさに感動できる。ギターのフレーズがどうのこうのとか、シンセの音がどうのこうのとか、弦楽の和音がとか。それは確かに楽しい。楽しいけど、行き過ぎるとうんちく語りそれ自身が目的になってしまう危険性があるということを言いたかった。
では、愛情をもってフレーズを語っているのと、ただ口がすべってるだけの音楽論。それをじゃあどこで判断すんねんと。まぁ普通考えて、それは読み手だ。読み手がすべてを決めればええんやということになる。まぁそうやろうと思う。すると書き手はただただ書くことをすればいい。自分のテンションの赴くままに、愛があろうとなかろうと。ということになる
でもそうなると、自分でジャッジせんでいいから、やっぱり安易な共有感覚が増えませんか。そうすると、惚れたおすような音楽体験が少なくなり、以下前回のブログみたいになるかもしれない。パンクのような音楽的なムーブメントなんてもう金輪際起きないかもですね。
おい、じゃあつまり聞き手の感動はどう表現すればええねん。抑圧すんのか、お前はネクラか。いや、それは読者が決めるからかけばいいんですよ、何でも。でもそうなると…以下同文。
あなたは書きますか?書きませんか?
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…でも俯瞰の視座にたつことも時には聞くことの快楽を引き出すために重要だから、言い切ることが難しいねんけど(と、ここで早くも論拠が弱気になる。でも素直にそう思うので書く)。
と前回のブログでは、例えば画家が画家の目をもって絵画を見ることが出来るように、音楽家は音楽家の耳をもって音楽を聞くことが出来る。それは常人の視聴体験とは確実にことなっていて、細かく聞ける。細かさに感動できる。ギターのフレーズがどうのこうのとか、シンセの音がどうのこうのとか、弦楽の和音がとか。それは確かに楽しい。楽しいけど、行き過ぎるとうんちく語りそれ自身が目的になってしまう危険性があるということを言いたかった。
では、愛情をもってフレーズを語っているのと、ただ口がすべってるだけの音楽論。それをじゃあどこで判断すんねんと。まぁ普通考えて、それは読み手だ。読み手がすべてを決めればええんやということになる。まぁそうやろうと思う。すると書き手はただただ書くことをすればいい。自分のテンションの赴くままに、愛があろうとなかろうと。ということになる
でもそうなると、自分でジャッジせんでいいから、やっぱり安易な共有感覚が増えませんか。そうすると、惚れたおすような音楽体験が少なくなり、以下前回のブログみたいになるかもしれない。パンクのような音楽的なムーブメントなんてもう金輪際起きないかもですね。
おい、じゃあつまり聞き手の感動はどう表現すればええねん。抑圧すんのか、お前はネクラか。いや、それは読者が決めるからかけばいいんですよ、何でも。でもそうなると…以下同文。
あなたは書きますか?書きませんか?
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