2008年2月24日日曜日

サイード

佐藤真監督 サイード out of placeを見る。

アイデンティテーなんていう怪物に挑み、花と散ったサイード。

彼の不在と、それとは対照的にイスラエルの街に息づく彼の思考の躍動をカメラは美しく切り取っている。逆言うとそれ以外が写っていない。

ドキュメンタリーとしてはあまりに観念的。でも間違いではない。



以下ウェキペディア

サイードはキリスト教徒パレスチナ人としてエルサレムに生まれたが、既に家族はエジプトカイロに住んでいた。しかし、エルサレムにはサイードの叔母の家があり、彼は幼年期の多くの時間をそこで過ごした。学士号をプリンストン大学で取り、修士号と博士号はハーバード大学から取得した。英文学比較文学の教授をコロンビア大学で40年勤めた(1963年~2003年)ほか、ハーバード大学、ジョンズ・ホプキンス大学エール大学でも教鞭を執った。 なお、サイードの経歴に関して、自身による詐称があったという批判が存在する。「パレスチナにずっと在住していたと詐称し、ユダヤ人に追い出されたなどとありもしない被害をでっち上げた。事実は、エジプトのカイロにて、富裕層の子弟として生まれ育ったため、社会主義政策を掲げるナセルに追い出されたというのが実情である」というものだが、サイード自身の発言の検証、自伝『Out Of Place』の発売時期の検討により、悪意による中傷であるとみなす意見が有力である。
学者としては、サイードはオリエンタリズムの理論で最もよく知られている。彼は著書『オリエンタリズム』(1978年)において、西欧文化におけるアジア中東の誤った、またはロマンチックに飾り立てられたイメージの長い伝統が、ヨーロッパアメリカ植民地主義的・帝国主義的な野望の隠れた正当化として作用してきたと主張している。
パレスチナ問題の発言者として、彼はイスラエル領とその占領地域およびそれ以外の土地に住むパレスチナ人の権利を擁護している。サイードは長年にわたってパレスチナ民族評議会の一員であったが、1993年に調印されたオスロ合意をパレスチナ難民のイスラエル領へ帰郷する権利を軽視したものであると考えているため、ヤーセル・アラファートとは決裂した。彼はまた、イスラエルがパレスチナ側からの承認と引き換えに占領しているヨルダン川西岸とガザ地区から撤退し、そこに住むパレスチナ人の将来の自立について交渉を開始するというオスロ合意の取り決めにも、そのように分離させるのではなく、代わりにアラブ人ユダヤ人が等しい権利を持つような新たな国を作るべきとの「一国家解決」論を主張して反対している。イスラエルのパレスチナ占領に関する彼の著書には、『パレスチナ問題』(1979年)、『The Politics of Dispossesion』(1994年)がある。
彼はまた、熟練したピアニストとして、雑誌『The Nation』に音楽批評を長年にわたって寄稿した。音楽評論をまとめた著書や、音楽学との学際的な講義も行なっており、忌日が偶然にも誕生日にあたるグレン・グールドの熱心な信奉者として知られていた。1999年には親しい友人でアルゼンチン生まれのイスラエル人のダニエル・バレンボイムと共に、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団を作った。これは才能ある若いクラシックの音楽家たちをイスラエルとアラブ諸国の双方から毎年夏に集めるという試みである。サイードとバレンボイムはこの業績が「国際的な理解に貢献した」という理由で2002年度のスペイン皇太子賞を受賞した。英語、アラビア語、フランス語に堪能だった。
サイードは晩年は白血病を患って教鞭をとることもまれだった。2003年9月25日、長い闘病生活の末に、ニューヨークで没した。67歳だった。

もう少し紹介。松岡正剛のサイト
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0902.html

権力は弱さにも宿る。どっちにもくみしたくない。そうすると必然として孤独との戦いを強いられることにもなる。

サイードやこの映画を描いた佐藤さんみたいな人にはなかなかなれないだろう。でも彼らの孤独の深さをあざ笑うような人間にもなりたくない。

と、するとこれから知らなければいけないことがたくさんある。

もしこれを読んだ人が少しでもサイード、佐藤真、ひいてはイスラエル、パレスチナの問題に興味を持つてもらえれば嬉しい。僕も何も知らないから、少しずつ知っていこうと思う。

あ、でも知るってのは知識を蓄積することではないらしいよ。実感することらしいのさ。批評家の小林秀雄が言ってた。難しい話しだ。

道は果てしなくつづくなぁ。でもだからこそ行くのさ。

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