どうも小林秀雄好きの万年活火山こと、とくひです。よろしくどっかーん。
まだしっかり読んでないので、あれですが、デカルトについて書かれた小林秀雄の文章を読んでいます。難しいので3ページくらい読むと、だいたい「ああもうわからん」となります。デカルトの『方法叙説』という本は、学術書はラテン語で書くのが当たり前の風潮の中、フランス語で書かれていたそうです。なぜか。引用します。
「古人の書物ばかり有り難がっている人々より、誰にも備わっている凡そ単純な感覚だけを働かせている人々の方が、私を正しく判断するだろうと思うからだ」
デカルトの『方法序説』は、若いうちに学問を学んだデカルトが、その知識をかなぐり捨て、「わからないことがわかった」という無知の知の確信を得るため、9年間もの間、従軍や各国の旅行などをして暮らします。
ここでまた引用
「冬の終わらぬうちに再び旅に出た。以来まる九年間、あちこち世間を歩き回る他には、何一つしなかった。世間で演じられる劇で、俳優たらんよりもむしろ観客たらんとつとめながら」
ここでのストイックなまでのまなざしが実存主義を生みます。哲学を全然勉強していない僕がいうのもなんですが(というか小林秀雄が言ってることなんですが)、デルトが肯定しようとしたのは、人々が本来もっている心の動き方なのだと思います。それはは、とてもとても俗なことです。日常的に生きていると感じる固有の感覚。その素朴な感覚と世界とのギャップ。そしてそこから生まれるまた素朴な感覚。デカルトはその一つ一つを何かにごまかされることなく、もっと見つめてみてはどうかと言ってるのではないでしょうか。その感覚をいさぎよく受け入れてみてはどうかと言ってるのではないでしょうか。
興味のある人は 小林秀雄の「考えるヒント2」を参照して下さい。余談ですが、この本は加瀬良も好きらしいよ。
個人的に素朴な感覚が誤魔化されることが、非常に多いな最近と思います。まぁそれは大人になったからかもなと思っていたけど、大人になるからこそ、素朴な感覚を誤魔化されないように勤めなければならないのではないかと最近は思ったりもしてます。どうでしょうか。違いますか。違うかもしれませんが、まぁただの恥ずかしい、痛い青年の主張だと思ってください。
ただ、青年が痛い主張をしない文化なんておもしろくもなんともないじゃないか。
ユーチューブでスペイン語字幕付きワンピース見ます。アラバスタは全部見た。
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