2010年3月3日水曜日

まちーださん

 例えばある人が狂気を表現したいとする。その表現が狂気を表すことにおいていくらクオリティーが高くても、それを受け手側が狂気だと認識できてさえしまえば、狂気を表現しているとはいえ、もはやその表現は狂気とは言いがたく、その表現は凡庸に、下手をすれば寒々しいものと感じてしまう。そのくらい人の認識というのは残酷なものだと思う。すぐに飽きると言い換えてもいいのかもしれない。

 久々にまちーださんの詩集を読んだ。確実におかしい。おかしいし狂っている。だけど、じゃあ何が狂っていて、どこから狂っているのかと言われるとなんだかよくわからない。どこかわからん時点で何かが確実におかしくなっていると思うのだけど、正常な感覚とあくまで地続きなので、狂っている感覚が正常な気もするし、正常な感覚が狂っている気もしてくる。なんというか「狂気」と「普通」の間にある壁がどんどんなくなっていく感じ。グラデーションが双方に広がって行く感じがする。自分の持っている様々な「普通」の感覚が「ネタふり」にも「オチ」にもなっていて、おかしみの無限ループが起こり飽きが来ない。
 それだと普通の詩人でもみんなそうやがなというけど、まちーださんは文体や言語感覚が非常に突飛なんです。だけどそれでも、特殊な感性を駆使しなくちゃ反応できない難解なものではなく、「普通」の感覚にちゃんとフィットさせられる詩なのが凄い。

あ、うちーだ先生が考察したまちーださんのエッセイについては
http://blog.tatsuru.com/2008/04/11_1942.phpで読めます。

 僕はまた別のやつが読みたいと思い、未読だった小説『浄土』買いました。みなさんもまちーだものを是非お読み下さい。エッセイも詩も小説もいいです。

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