2011年2月26日土曜日

音楽の聞き方

音楽の記事が続く。音楽好きなんです(最近は音楽鑑賞が趣味なんです、というとおもんないやつと思われるらしいですね。僕はほんとうは音楽鑑賞が趣味ではありません。ほんとの趣味はつちのこ探しとジャム作りです)

昨日深夜にもんもんと考えたことを書きます。

 例えば、運動神経の良い人だけがわかる音楽世界って僕はあると思う。さらにいうと、世代感覚、ジェンダー、民族、トラウマ、あらゆる個人的経験が音楽の視聴の歴史を形作る。で、そこに視聴という固有の経験が生まれ、言わば、すごく勘違いする。この曲のこのうまみを俺はわかっているとかね。それはまさに勘違いで、でもそのことはやっぱり聞く行為にとって重要だと思うんです。なんというか「恋愛」感情にとても似ている。ただ、この恋のような感情は、ある種視聴という行為の純粋な洗練にとっては邪魔なわけです。だから音楽をよく聞く人は「惚れないように」何か言葉を探し、共有しようとする。安易な共有ってすなわち対象に「惚れないようにする」ということだと思う。自分で抱え込むと、濃度があがり中毒になるから。最近の傾向は、自分は勘違いしていないのだ、美的、比較対象として音楽を享受し、ある一定の感覚に基づいてジャッジしているんだという、審判の視点、なんというかこういうのを獲得し、一人じゃ不安やからそれを共有しようとする人が増えつつあるように思う。「惚れないよう」するツールもあふれているし。惚れてしまえば、勝手に音楽を買って、自分で聞いて、聞き惚れてライブに行って、でその場所にはこの音楽に惚れた人たちがこんなにいるのだって純粋な感動に浸れる

 審判の視点は、本当に面白いのかな。いや、ある程度面白いんです。俯瞰の視座に立てるから。でも勘違いした方が、恋をした方が面白いんじゃないかな、とも思うのです。啓蒙的に、偉そうなこと書いてますが、自分がこの審判の視点の安易さ、恩恵にすぐあずかろうとする人間だからこそ、余計にそう思うのです。…でも俯瞰の視座にたつことも時には聞くことの快楽を引き出すために重要だから、言い切ることが難しいねんけど(と、ここで早くも論拠が弱気になる。でも素直にそう思うので書く)。

 今日はアナログフィッシュのライブ!

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