2009年3月18日水曜日

3月18日!

 藤井仁子さんという映画研究家を知り、ブログばっか見てます。本も読んでます。アメリカ映画好き。京大出身。自分のことおっさんと言う。アメリカ映画好きはアクションの合理性、非合理性を追求します。たぶん。運動ですね。だから狙い過ぎの画面の構図とか、しゃら臭いと思うんですね。たぶん。その構図はなんの運動に回収されるんだと。なんの欲望に回収されるんだと。お前のマスターベーションだろと。おおやってみろ、構図狙ってみろ、ほとんどクソみたいな映画になるぞと思ってるんです。たぶん。

 音楽と映画の分析の違いが、おもしろくてしょうがないんすよ。最近。音楽は数学的分析が可能なんすよね。ものすごく記号化出来る。記号同士の関係性を非常に細かく追っていける。では映画はどうか、映画なかなか記号化できない。例えばシーン1をG7、シーン2をFとか言えないわけです。

じゃあどうするか。

 全体を俯瞰し、映画におけるこの猫は、精神分析学的に〜の象徴であるとか、この映画において描かれなかった「何か」こそ〜とか言う。現代思想とか、フロイトとか持ち出す。
 また、アメリカ映画の批評家連中は、グリフィス(アメリカ映画の父)から研究されてきた、アクションのすぐれた映画的効果に言及するわけです。階段の昇り方がすごく映画的だとかね。よくぞ、ここで椅子に座らせたとか。常人には理解不可能なんやけど、すごい映画いっぱい見てる人は本当にそういう目で映画を見るんです。この目の正しさは歴史が証明しているといった感じ。この表現は映画史的に正しいという言い方。藤井さんのブログはそういう「目」がたくさんあり勉強になる、同時にちょっと大変でもある。
 あとは物理的な技術の革新から攻める。このときにこの機材が開発されたかた、この表現が可能になったとか。この照明はレンブラントの影響化にあるとか。

 こういった批評軸を(一概に言うけど、研究には当然時間も才能も全部必要)混ぜ合わせ、映画は分析される。

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 いや、うん。素晴らしい。でも、実学と感覚と分析学をもっともっと混ぜこぜに出来んもんかなーと思うんですね。音楽のように。音楽はベース腰にくる!とか四つうち踊れる!とかわかりやすいからなー。そこからの亜流も耳にすればわかるもんな。映画は難しい。同じ脚本を撮ってもらいたい。イーストウッドと黒沢清と普通の大学生に。それで出来上がったものを見て、いろいろ言う。そういうのが出来たらわかりやすくて最高なんやけどな。

 卒論で失敗したなーと思うのは、総論的なもんに逃げて、作品の細かい分析を怠ったことです。実学にのっとって1つの作品を取り上げて細かくやればよかった。

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 ちなみに作品作るときに批評軸は無意識化におしこめます。作品は野蛮であるこだけが使命だと最近は思ってます。

例によってうまいこといえてない。
藤井さんのブログです。http://mgccinema.exblog.jp/

 ちなみに2008年度最強の3本(ノーカントリー、ダークナイト、ゼアウィルビーブラッド)に対しての批評がほんとおもしろいです。筋金入りだわ。僕は全然違う意見。

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