2010年11月30日火曜日

ドッキュンメンタリティー

前回からの流れもあって、ガーデンの 「ドキュメンタリーという映像表現 その思想と手法 」を勝手にまとめます。講座を受けていて、TVドキュメンタリーのディレクターにも確かな作家性のようなものが感じられました。

以下簡単やけど。



大島新

被写体と対峙し、しかけ、空気を変えることでドキュメンタリーの雰囲気を作り出す。こちら側からエネルギーをぶつけることで対象のリアクションを引き出す。ご本人の正確が真面目な方なので、しかることや対象のエネルギーに負けないようにすることに、はっきりとした意思を秘めているように感じた。王道ドキュメンタリスト。

横山隆晴

長期取材と、長年培われた技術力で、自分の意図を確かに映像化する。不確定なドキュメンタリーの素材を「力」で映像化する。早いカット割、多彩な映像素材の使用、音楽のタイミング、ナレーションの抑揚のつけかたなどでダイナミックに映像を展開していく。テレビドキュメンタリーの技術を駆使しながら、魅せる映像を作っている。

藤井稔

横山さんとは対照的な静のドキュメンタリー。どこまで引き算できるのか、映像から何をひけるのかを常に考えている。映像のもっている劇的要素へのアンチテーゼをテレビドキュメンタリーという枠の中でやっている。山小屋カレーという作品はとても好きだった。省略が生かされた静謐な作品。

国分拓

文学で扱うようなテーマをドキュメンタリーでやろうとしている人。半径5mの狭い世界ではなく、大きな世界のしくみや考え方を魅せようとしている。例えばガルシアマルケスの『百年の孤独』。例えばカポーティの『冷血』。強い映像、幽玄な音楽、言葉数の限りなく少ないナレーションの伝え方で壮大な世界観を形作る。



 作品を見て、話を聞いてみて、どの方にもかなりはっきりした作家性があるなと感じた。それらの方向性というのもはドキュメンタリーの可能性そのものだと思う。ディレクターの取り組みを一作品毎に詳細に論じれないのがちょっと残念ではある。
 ただTVドキュメンタリーには、こういう「作家」へ企画を提案する、もしくは組んでドキュメンタリーを作る専門のプロデューサーが欠けているでは?という危惧もある。例えば、あえて藤井さんに「従軍慰安婦問題」を料理(不謹慎な言い方やけど)してもらうとか、国分さんに「ある小学校の一日」という極めて身近な世界をふってみるとか。いっそフィクションをやらせてみるとか。そうすることで、思っても見ない映像が立ち上がってきて、ドキュメンタリーのファン層が増えるのでは。漫画家の浦沢直樹における長崎尚志的な人がもっと出現すればいいのに。

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