2010年1月25日月曜日

ルート1

忘れないうちに感じたことを書き連ねる。

 先日土曜日 ロバートクレイマー監督 『ルート1』(1989年製作)という4時間超えるドキュメンタリー映画見てきた。撮影内容は至極簡単。

 撮影クルーがアメリカを南北に縦断するルート1を車でドライブし、時折止まり様々なところに押し掛け、カメラを回す。以上。これを4時間ずっと繰り返す。

構成的な特徴を以下覚えてる範囲で書き連ねる。

・フィクションかドキュメンタリーかわからない。

・様々な社会問題を扱っている、現場にカメラを向けている。

・音声に尋常じゃなくこだわっている

・役者がいる。クレジットには1名と明記されていたが、絶対に違うと思う。

・ストーリー(のようなもの)に全くつじつまが合っていない。

・風景カットの数が信じられないくらい多い(ギネス認定すべき)。

・音楽がかっこよく、音楽を入れる工夫が凄い。

 今日に至るまで様々かんがえたんやけど、まずこの映画の音について、もう少しだけ掘り下げたい。この映画の音声は様々に工夫がされている。まず、ドキュメンタリーにありがちな、「色々な音」が聞こえない。画面の音の情報量がものすごく餞別し整理されている。そしてその餞別された音にさらに工夫をこらし、リバーブやエコーなど様々な効果音をかけている。ドキュメンタリーという、幸か不幸か現実を写すといったことを至上命題に掲げられた映像に、音声側からの決別を計っている。BGMだってそう。異化効果といった分かりやすい映画文法からなるべく距離をとるような使い方だ。一番驚いたのは、ダンスのシーンで、そこの踊り場のステレオから流れているダンスナンバーでなく、(たぶん)違う曲をBGMとして流す場面。BGMとは書いたものの、この曲はステレオから流れてるの?それともBGM?判然としない。今でもわからない。

 異常な数の風景ショットについても少し。映画というのは逆に映像を餞別するものだと思う。何を写すかが大事。でもこの映画は違う。全部写す。何をではなくすべて。すべて写しきる。この監督はすべての風景は残らず映画になると思っている気がする。餞別された特別な風景だけが映画になるのではなく、すべての風景が映画になる。批判的にいうのではない(むしろすべての風景が映画になるなんて素敵だと思う)が、若い頃左翼思想のど真ん中居たらしいので、ありそうなものだ。まぁ監督の思想はさだかではないが、この異常な風景ショットの数はドキュメンタリーの映画文法を破壊するのに十分である。あ、語弊なきように言いますが、それでも選ばれてはいるんですよ。全素材使用しているという意味ではない。そいうではなく、普通なら場面転換などの素材としての機能する「風景」ショットが、その膨大な数により、単なる「素材」以上の価値が出ていると言うこと。

 ただ破壊のための破壊ではない気がする。そんな殺伐としたものではなく、もっと甘い陶酔するような映像感覚があった。4時間を超える映像の長さもその感覚を助長させたかもしれない。細切れされた映像から立ち上ってくるのは、記憶の中の風景で、その中で繰り広げられている様々な諸問題は、なんとなく夢の中で起こっているかのようだった。黒人差別も貧困問題もベトナム戦争の傷あとも、まるで蜃気楼のようにとらえどころがない。映像の中で諸問題をつかもうとすると場面が風景に変わる。そして風景が連射で続いて網膜に焼き付き、社会問題はたちまち消えて、またいつのまにか次の場所で次の問題が立ち上がる。これは乙女チックな刹那的な甘美な感覚というより、男の子が好きそうな永遠を感じさせるロマンティックな陶酔感覚のような気がする。そこに放り込まれた、諸問題の主人公達は幸せなのか不幸せなのか。不幸せであるならその尺度はどの程度なのか。全くわからない。夢の住人の感情がわからないように、彼らには一切意味を付与できなかった。そこがきっとこの作品のドキュメンタリー映画に対する最大の批評性だと思う。

しんどかったし軽く寝たが(胸を張っていいます)、このタイミングで見て良かった。いろいろ考えれた。

で、昨日は30分のNNNドキュメントを見たのだが、これはすべての映像が音が素材としてしか機能してなく、ドキュメンタリーの振り子の両極を見た気がした。まぁそれは全くわるいことではないんやけど、にしてもNNNドキュメントは絶対に45分から1時間にすべき!なぜか・・・

いや、もうしんどい。番組のファンならではなの想いがあるのだが。また今度書こう。

寝ます。

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